硝子を拭う午後
ルルル、そっちの端を持ってくれるかな。この硝子板、思ったより重くて一人だと傾いてしまうの
どれ、貸してみよ。ふん、これしきの板切れ、わらわ一人でも持ち上がるわ。ほれ、受け取ったぞ。そなたは乾いた布で水気を拭き取るのじゃ
ありがとう。角のあたりから拭いていくね。そういえば昨日、裏の小道を歩いていたら、郵便屋さんが自転車を止めて、道端の小さな祠をじっと眺めていたの
郵便屋じゃと。配達の途中で道草とは、人間の勤勉さも知れたものじゃな。わらわの領地であれば怠惰として叱責するところじゃぞ。……おい、そっちの隅にまだ水滴が残っておるぞ
あ、本当だね。拭き直すよ。でもね、叱責するような雰囲気ではなかったと思うの。カバンを肩にかけたまま、帽子を少し上げて、何か古い知人にでも会ったような顔をしていたから
知人じゃと。石でできた祠に向かってか。人間は時折、無機物に感情を重ねる奇妙な癖があるの。何百年経ってもそこだけは変わらん
そうかもしれないね。でも、ただの石に見えているわけではないのだと思う。誰かがそこに置いた祈りや、通り過ぎた時間の気配を、無意識に拾い上げているのかもしれないな
大層な理屈を並べるでない。……む、その拭き方では筋が残るぞ。もっと円を描くように力を均等に入れるのじゃ。ほれ、布の乾いておる面を使え
こうかな。少し力を入れると、向こう側が透き通って見えるようになってきたね。ルルルは手先が器用だから助かるよ
当然じゃ。わらわを誰の配下だと心得る。……それで、その郵便屋は結局どうしたのじゃ。賽銭でも投げ入れたのか
ううん、何も置かなかったよ。ただ胸の前で一度だけ小さく頭を下げて、またペダルを漕いで坂道を下っていったの。その背中が、なんだかとても軽やかだったんだよ
……ふん。何か重い荷物をそこに置いてきたような顔をしておったのじゃろう。人間は勝手に背負い、勝手に手放して勝手に安堵する。実にせわしない生き物よ
手放す、か。確かにそう見えたかもしれないな。言葉を交わさなくても、頭を下げるだけで区切りがつくこともあるのだと思う
……おい、燈。話に気を取られて手が止まっておるぞ。わらわが板を支え続ける羽目になっておるではないか
ごめんね。ふふ、ルルルの腕が少しプルプルしているように見えたから、つい
戯れ言を申すな。これくらいで揺らぐわらわではないわ。ほれ、さっさと裏面も拭いてしまえ。次はそなたがこちら側の端を持つのじゃ
はい、交代ね。……うん、裏側は少し埃がこびりついているみたい。濡らした布をもう一度当てたほうがいいかな
待て、わらわがやろう。そなたの力加減では落としかねんからの。……しかし、あの坂道の下にある祠のことじゃろう。わらわも先週、通りがかりに見かけたぞ
ルルルも見かけたの? あそこ、木陰になっていて普段はあまり目立たない場所なのに
目立たぬからこそ目につくのじゃ。赤い前掛けが新しくなっておったぞ。誰かが縫い直して結わえたのじゃろう。あのような手間をかける者がまだこの界隈におるのだな
そうだったんだ。誰かが大切にお世話をしているんだね。それを見つけたルルルも、ちゃんと周りを観察しているのだと思う
観察ではない、領主としての視界の広さじゃ。……よし、裏の汚れもあらかた落ちたぞ。光にかざしてみよ
わあ、すごく綺麗。向こうの棚まで歪みなく見えるよ。二人でやると、あっという間に終わるね
ふん、わらわの指図が的確だったまでのことよ。さあ、枠にはめ直すぞ。油断して手を挟むでないぞ