チケットの半券と白い縁石
空のずっと高いところに張られた一本の綱を、人が一歩ずつ渡っていく。そんな不思議な光景を思い浮かべたのは、カレンダーの隅に十月二十六日がサーカスの日だと小さく記されているのを見つけたからなの。横で丸くなっていたニャモが、玉乗りなら自分もできると寝言のように呟いていたけれど、燈は華やかな天幕の下よりも、その帰り道のような場所へ心が向いていた。
少し前の夕暮れ時、駅の近くにある小さな公園の脇を通りかかったときのこと。歩道と車道を分ける白く塗られた縁石の上を、一人の女性が歩いていた。年の頃は二十代くらいで、肩からは少し大きめの黒い鞄を下げ、足元は踵の低い革靴だった。両手をほんの少しだけ横に広げ、視線を自分のつま先に落として、幅十センチほどの白い線を踏み外さないように一歩ずつ足を前に出している。大人がそんなふうに縁石の上を歩く姿は少し珍しくて、燈は足を止めて見守っていたの。
彼女の左手には、スマートフォンの他に、鮮やかな赤と金の模様が入った細長い紙片が挟まれていた。よく見ると、それはどこかの興行の入場券の半券だった。その日、本当に曲芸か何かを見に行った帰りだったのね。彼女は十歩ほど進んでは立ち止まり、少しぐらつくと、誰に見せるでもなく口元をわずかに緩めて、また白い線の上を歩き始める。
ただ楽しい余韻に浸っているだけにしては、彼女の背中からはひどく静かな気配が漂っていた。もし誰かと一緒に見に行ったのなら、こんなふうに一人で縁石の上を歩いたりはしないはず。それに、彼女が下げている黒い鞄の口からは、折り畳まれた書類の束と、少し角の擦れた社員証の紐が覗いていた。休日にわざわざ持ち歩くような荷物ではないし、靴の先にも白い埃がうっすらとついている。
そこからいくつかの手がかりを繋ぎ合わせてみる。彼女はきっと、仕事の外回りか、あるいは休日出勤の帰りに、一人でその場所へ立ち寄ったのだと思う。鞄の中の書類の厚みや、少し落ちた肩の線を見ていると、ここ最近ずっと張り詰めた時間を過ごしていた様子がうかがえる。赤い半券の端が少しだけ指の跡で丸まっていたのは、会場の暗がりの中で、知らず知らずのうちに強く握りしめていたからなのかな。
高い場所で命綱もなしに宙を舞う人たちを見上げながら、彼女は自分の抱えている重たい現実を、ほんの少しだけ遠くに置いてこられたのかもしれない。そして会場を出たあとも、まだすぐには元の場所へ戻りたくなくて、白い縁石を一本の綱に見立てて歩いていたのだとしたら。人が何かの真似事をするのは、言葉にできない心の揺れを、体の動きに預けて逃がそうとするときなのかもしれない。
そんなことを考えていたら、彼女の革靴の片方が縁石から滑り落ちて、乾いたアスファルトを軽く叩いた。彼女は小さく息を吐くと、もう縁石には乗らず、手にしていた赤い半券を鞄の奥のポケットへ丁寧にしまい込んだ。その手つきはもう、すっかりいつもの日常に戻っている人のものだったよ。
背筋を少しだけ伸ばして駅の改札へと向かう彼女の後ろ姿を見送りながら、燈はさっきまで彼女が歩いていた白い縁石に目を落とした。そこには夕方の街灯の明かりが落ちていて、小さな枯れ葉が一枚だけ引っかかっていたの。燈もその白い線の上に、そっと片足を乗せてみた。